【2026/6/24】
Obsidian Vault:整理して書くことを前提としたノートブック
scribe:整理せずに書くことを前提とした脳内キャッシュ置き場
結果的に生まれるのはライフログ。日記とはちょっと違うけど
Podcast:僕がメインとしている制作の場所。複数番組かつRSS
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これでおおよそ入力用のシステムは完成と見ていい。あとはもう少しデータベースとしての形を考えて、フロント部分の仕組みを整える。すると「僕の日々の活動を自動で取り込んで、自動更新を続けるパブリックリレーションシップ用のWebページ」ができる。ここにメンバーシップ用の決済システムを乗っけると、統合開発環境「REDE」と呼べるものができる。
コンテンツという言葉がどうも軽い。僕にコンテンツを作っている感覚はなく、作品を作っている感覚がある。重量感があって作るのがとにかく大変で、過程がいちいちどろっとしていて力が求められる。大量の水飴を、カヌー用のオールでかき混ぜて作るような感じ。コンテンツはポン菓子のようなイメージ。
興味深いと感じたポスト。「その学位は時代遅れ」 若者失業16%超の中国 文系学部の大量削減へ」という記事に対して、「私自身も含め、人文学的な仕事で食うことから、はやく抜け出さないとやばいな…」とコメントされたいたもの。
https://x.com/KuwaharaTabito/status/2069355378610241700?s=20
自分が食っていけるかどうか完全に無視することは難しい学生と、経済を盛り上げていかないと苦しいと感じる社会および会社が、「人文学的な仕事で食う」ということを年々厳しくしていくなぁという雰囲気は僕が大学生だった2015~2019年にすでに明確にあったと記憶している。
4月。国立難関大学に受かって浮かれたピカピカ笑顔の学部1年生が、国立のキャンパスの建物から、社会学概論の授業終わりにわわっと出てくる。僕たちは200人くらいいた気がするし、ここに他の語学クラスやゼミ終わりの学部生たちも合流して「このあとの新歓どこいく?」とか「〇〇部です、チラシどーぞ。今日イベントありますよ!」というような活気ある能天気なおしゃべりをしながら歩いていく。
と、そんな感じで活気にあふれたビル的な建物の向かいには、もう一つの建物が対峙していた。大学院生向けの、より重厚な作りをしたその建物からは少数の大学院生たちがやや憔悴した雰囲気でまばらに歩き出てきていた。彼らはなぜか一様に15°くらい、気持ち下の方にある虚空をまっすぐに直視しながら、なかなかな早歩きでキャンパス外へと進んでいくのであった。そこには世捨て人的な、しかし世を捨てきれず、故に世の中で一番苦しい立場に置かれているような。そのような趣があった。彼らは皆一人で、早歩きで、気持ち下の方にある虚空を凝視(み)ていた。
4月の桜咲く国立市のキャンパス。枯れた噴水を挟んで向かい合う2つのビルは非常に対照的な雰囲気を醸し出しており、僕は「あぁ文系大学院は一旦いかないほうがよさそうだ」と考えたことを鮮烈に覚えている。そこに所属するということが、最も僕を苦しめるのではないかと。
---https://www.sixthtone.com/news/1017627戦後の数十年間の間だけが例外で、この時代にはスーパースター以外の哲学者や人文系学者もメインストリームとして活動できていたということなのかもしれない。そしてこれよりはるかに長い間、哲学者や人文系の学者はアーティストやミュージシャンあるいは「詩人」に近い存在だったのかもしれないね。昨日の2026-06-23のscribeに書いた東浩紀の発言ともリンクする。時代認識を作り出す詩人。そこにどのような技法を持ち込むかで呼ばれ方が変わるというだけなのかも。言葉の美しさなら詩人、理論と分析技法と論文そして査読など制度上の答責性に則るなら学者、音楽ならミュージシャン、造形や複合的な表現なら芸術家。→この辺についてclaudeとスパーリングをした---17時もすぎてだいぶお腹が減ってきた。こんなこともあろうかと、僕は朝に家で北海道産しれとこ鶏の手羽元(半額)を煮込んだカレーを仕込んである。お米も浸水させてある。家に帰るのが楽しみである。---↑scribeとREDEはこういうのを積極的に残し、できるならば数十年後にも読めるような形にしたい。AIやその先を見越したライフログとして。---https://www.youtube.com/watch?v=DMgoxL7pW1M---アフォーダンス。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語で[1]、環境が動物に対して与える「意味」あるいは「価値」を指す。生態光学、生態心理学の基底的概念であるが、近年では生態心理学の文脈にとどまらず、広く一般に用いられるようになってきている[1]。今日ではアフォーダンスという語の用法が混乱しており、主に二つの異なる意味合いで用いられている。以下にその詳細について記す。---(本来の)アフォーダンスギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは、動物と物の間に存在する行為についての関係性をあらわす言葉である。例えば人物Aとドアについて、Aにはそのドアを開けるという選択肢がある。この選択肢が存在するという関係を「このドアには “開ける” というアフォーダンスがある」あるいは「このドアは “開ける” という行為をアフォードしている」と表現する。アフォーダンスは環境に存在する行為の機会、可能性をあらわす概念である。アフォーダンスを指し示すインターフェイスが存在するか、動物がそのアフォーダンスを現に認識しているか、といったことは、そこにアフォーダンスが存在するか否かということとは別の問題である。上のドアの例では、人物Aがドアノブの存在に気づいていなかったり、ある一定の操作を行わなければドアノブを回せないような仕掛けがあったりしたとしても、依然としてAとドアの間には「開けることができる」というアフォーダンスが (潜在的に) 存在している。ドアがアフォードするのは「開ける」という行為だけではないということにも留意する必要がある。例えば「外す」「破壊する」「穴を開ける」「もたれかかる」といった行為も可能であり、ドアはこれらの行為も同時にアフォードしている。このように、通常ある物体に存在するアフォーダンスは一つに限定されるものではない。 >例えばボールペンと僕との間には”書く”と”刺す”と”投げる”と”舞う”といったアフォーダンスがあるが、ボールペンとゾウの間には例えば”投げる”というアフォーダンスだけがあるということ?---シグニファイア特にデザイン領域において、「人と物との関係性(本来の意味でのアフォーダンス)をユーザに伝達する事」「人をある行為に誘導するためのヒントを示す事」というような意味を表すために「アフォーダンス」の語が用いられることがある。「わかりやすいドアノブを取り付けることで、ドアが引いて開けるという動作をより強くアフォードする」といったニュアンスの記述もしばしば見られるが、これらはギブソンが本来意図していたものとは異なる語法である。この用法を結果的に世に広めてしまったドナルド・ノーマン自身も後年にそれを認めており、以降はシグニファイアという言葉を用いてこの概念を説明している。現状では特に注釈なくこれら二つが入り交じって使用されている(むしろ後者の用法がより広く浸透している傾向がある)ため、十分な注意が必要である。---シグニファイアは特定のアフォーダンスをエンパワーメントするものということっぽい。