メディアは「出来事を伝える場所」から「自ら何かが起きる場所」への転換を進めている。そこで良質な議論が作られる箱を作り出し、そこから抽出した良質な議論のアウトラインを有料のニュースレターにするのもいいかもね。そこにリハックなどは先行して動いているわけだけど、もっと地味でエンタメに振りすぎないやり方でやりたい。ここにREDEのネットワークとかは相性がいいかも
あるいはREDEをベースとした僕のポッドキャストとしてやってもいいかもね
昨夜ベッドに入ってから「俺は今の状況のどこに不満を感じているんだろう」と考えた。北海道の田舎に住んでいるフリーランスとしては十分暮らせるし機材への投資もできるくらいに稼げるようになった。オリジナル番組もサカナカイギとしてニッチな領域で高い評価をもらえるようになっているし、これがきっかけでさらに仕事が増えもした。
今はもてるお金を全て機材や交通費や編集ソフトにぶん投げているけど、それもいよいよハイエンドな製品に手を出せそうだなとか。そうして他の人が「これどうやって作ったんだ…?」と思ってくれるようなハイエンドポッドキャストが作れるようになるという過程を、問題なく進めているようにも思える。そりゃ確かにメンバーシップがまだふわふわしていたり人数が少ない状態だったりするとか、クライアントワークが主体であるとかはあるけれど。僕がぼんやりと感じた不安はこのような種類のものではない。
昨日はこれという考えに辿り着くこともなく眠ってしまったわけだが、今朝ご飯を食べたりコーヒー飲んだり洗濯をしている中で、一つ思い浮かんだことがある。やっぱり「ハイエンドなポッドキャスト」を作れていないこと、ただそれだけなのではないか?
これは僕も反省すべきところなのだが、コテンラジオ以降「高品質でありかつ持続可能なハイエンドポッドキャスト」を確立できているプロジェクトがほとんどない。その高品質さには当然ながらリソースの大量投下が前提として存在するわけで、これを賄う体制を確立させることができずに終了した番組が数多いということが一つある。もう一つは単に高品質さにリソースを投下することなく運営することで継続できるというものである。
高品質であることと、持続可能、あるいはさらに拡張可能なハイエンドポッドキャスト。僕はこれをやりたいわけだ。もうここ2年くらいの間。
シーンも停滞気味というか、ポッドキャスト発の新しい面白さに乏しいと感じてしまう。新しいものを聴きたいし、僕はそれを作らなければならない。お仕事も増えてきてやっとこれを始めることを考えられそうだという現実に立つのに2年かかり、その2年間にリスナーとしてもクリエイターとしても感じていた「そこはかとない満たされなさ」が溜まってきたということなのかもしれない。
なお「高品質でありかつ持続可能なハイエンドポッドキャスト」を確立することはプロデュースの領分である。高品質な番組を作るのはディレクションの領分。一方で高品質な番組であることと、持続可能な体制を統合したものとして洗練されたプロジェクトにできるかはプロデュースに左右される。例えばミモリラジオはディレクションに成功したがプロデュースに失敗したと言える。
僕は今、社会からあまり注目されない領域の研究者や専門家を相手にしたロングトークを軸としたハイエンドポッドキャストを作ろうと動いている。これの評価は他の人に任せるが、少なくとも全力を出しての勝った負けた的なことをやってすっきりしたい。
とはいえプロデュースの試みとしてうまく行く方法を考えてもいることはいるけれど、しかしこれはいつも難しいね。
シャワーを浴びてる途中で思いついた言い回しがあったんだけど、忘れてしまった。と書いたら思い出した。
この回は(この会話)だ。
〇〇が好きなんですよ
つまりこの回は…?
〇〇概論です。
のように。
うーん僕は制作会社の方向で行きたいのか作家のような感じで行きたいのか、スタジオのような感じで行きたいのか。少なくとも自分で面白いと思えないものを作りたくないところがある。今は。
では自分でも面白いと思えるものを、僕の信頼できている人が作れているとしたら?あーそれはまぁいいかもしれないなぁ。その作品の良さを理解できるかどうかというか、クオリティコントロールやテーマコントロールの問題なのかもね。
それで言うと単純な制作会社の中には「なんでも作る、誰がクライアントでも作る」と言うところがある。そう言うのをやりたいと言うことではない、と言うことがはっきりする。
例えば少人数で、顧客を選び、ハイエンドだと言うことを意識して仕事を手がけるようなスタジオなら?あーそれならまぁいいかもなぁ。
「人は変われる」と他人に期待するのは不毛だが、僕は僕を変えていくと意識することはあらゆる意味でポジティブだと考えている。
ミリタリーものではあるんだけど、アメリカ軍トレーニングシューズのSASがめちゃくちゃしっくりくる。僕はどこの場所でも、それが自然に近い場所だろうと都会のど真ん中だろうと着用できるものが好きで「文化的4WD」と心の中で呼んでいるだけど。SASシューズはまさにこれである。何足持っててもいいと思えるのは初めて。
オリジナルのミニゲームが埋め込まれている個人Websiteとかポートフォリオサイトってないもんかな。どっかにあるとは思うんだけど。
面白そうな方からお問い合わせをいただいて嬉しい。ありがたい。
先月のメモから。
柄谷幸甚のnamという学びのコミュニティがあったらしい。これはポッドキャストベースでやれそうだよね。それはWEB1.0的風景の現代版「言論空間としてのポッドキャスト」という見方をする人にとってとても想像しやすい概念なのかも
Obsidianのグラフビューはこけおどしだ。
それよりもscribeとObsidianとAIで実装している「書いてる側からリンクが更新されて、記事同士が接続されるテキストベースでの自動リンキング」の快感の方がよほど便利だ。
どこの業界もそうかもしれないが、中級者向けのコミュニティが一番見つけにくい。
東浩紀の動画の切り抜きがとても良かった。自分で文字起こしを書いた。
https://www.youtube.com/shorts/dJfnjQlUl-w
「文系の学問なるものは、本当の意味での学問ではない。理系の皆さんが言ってる通り。
でも…すっげぇ楽しいんだよ。プラトンのこの部分を持ってきて、デリダのこの部分を持ってきて、ルソーのこの部分を持ってきて、トクヴィルのこの部分を持ってきて、つなげる。すっげぇ良いんだよ。めちゃめちゃ楽しいんだ。
これは自然科学の基準だと学問じゃないと思う。けれども近代の自然科学というもののシステムが作られる前は、これこそが学問だったわけだ。そういう意味で言うと学問という言葉の古い定義はこっち側にある。でも近代の自然科学と全く違うのは確か。
で、近代の自然科学が世界のベースであり、正しさのベースであるという世界において人文学っていったい何をやっているのか。昔はこっちが正しさのベースだったけど、それは奪われちゃった。僕は最近ちょくちょく言ってるけど、もうこれ結局、俺たちってすげぇ格好良くて楽しいことやってるんだけど?以外ないんじゃないかと思うんだよね。だって人文科学から世界の真理なんて出てこねぇだろ、ふつうに考えて。」
過去には「ざっくり言うと、文系学問は反復不可能な事象に対する知であり、理系学問は反復可能な事象に対する知である と発言されていた」とのこと。これもまたいい。
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個人的に、例えば「反復可能な事象に対する知」だけに則って作られた社会はディストピア以外にありえないとも思った。常に一定以上のバラエティ豊かな例外があるにもかかわらず、それを全て抑圧してしまいALL OKとする社会。そう言った意味で、反復不可能な事象に対する知としての文系学問としての政治学や経済学や社会学などは必要なのだろう。
また、例えば社会科学の中にも「一定の反復可能性」というものが随所に見られる。そう言った意味では、自然科学と同様に「どのような条件における反復可能性か」という条件付きの反復可能性であることは一致しており、仮にいかなる条件においても成り立つ「究極の真理」などというものがあったとしたら、どちらとも五十歩百歩なのだろうね。
すると理系学問は「厳密かつ詳細な条件管理下における反復可能な事象」に対する知であり、文系学問は「一定の条件管理下における反復可能な事象」に対する知と言えるかもしれない。文系学問における一定の条件管理下を大きく下回るものはブログやエッセイや随筆や呟きのようなものになる、これを見分けることが人によっては難しかったりこれをごちゃ混ぜにしたペテンをしてしまう人がいるということかもね。
メールを返したりscribeをカスタマイズしたり考え事しちゃって全然編集が進んでねぇ!!!
編集を、します。
編集中に電流走る。
これ月単位でまとめて編集画面ひらけばいいんじゃねぇか…?
今まで作るエピソードごとに編集画面分けてたけど、そうしなくていいじゃん。
「日本のポッドキャストシーンの変遷」はこんな感じに見えている
草の根ポッドキャスト
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草の根ハイエンドポッドキャスト
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タレントポッドキャスト
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タレントビデオポッドキャスト
もうテレビもネトフリもYouTubeも。
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(次)草の根スーパーハイエンドポッドキャスト
ポッドキャストでしかできないことの再発明
なんだかまだまだ僕には足りないものが多い。相対する相手が聞くともなくその人の面白さを出してくれるような、相手をして面白く語らしめるようにならねばならない。そこからすればまだまだだと思う。あまりにも遠い。
ガイロンはミュージアムツーリズム的な角度からも評価できると以前考えたことがあった。であるならば、当該テーマの対象とする地域自体に協力してもらうことで広まっていくことは戦略的に考えられる。ちょうど折しも繋がりができた人たちの中には、コンテンツツーリズムを主題とする北海道大学の山村教授もいる。縁とは不思議なものではないか。
つまり僕はガイロンを思いっきり作ること。
面白いポッドキャストは1話目から面白い。
そして地域やテーマの力を借りること。
そうして「この地域に行くなら聴いておくか」とか「興味はないけどついでに聴いてみるか」という挙動を、番組の質で引き出していくこと。
僕は色々な経験や技法を積むことはできたが、それらを一旦意識することなくでも意識せずとも引き出せる条件を整えて、ただただ全力を尽くし楽しみながら必死にやってみること。あとは自ずからうまくいくのではないか。
僕はチームの全員が-それは一人で全員という意味でもいいのだが-そのポッドキャストプロジェクトを仕事の第一優先としているような状況を体験してみたいのだ。大事なのは人数ではなく、純度である。
あとはもう本当に状況に思いっきり身を委ねて全力を出す心地よさ
そこに意義とかなんとかは、本当は関係なくどうでもいいのだ